サンフランシスコ・ベイエリアの『食』領域で活躍する日本人オーナーに迫る 2 前編
第二回 炭家・俺ん家(ビヨンド)・いろり家 丸山ビジネスパートナー兼エグゼクティブシェフ
サンフランシスコ・ベイエリアで、圧倒的な支持を集める飲食店4店舗を経営する、オギク・コーポレーションの事業開発ディレクター兼エグゼクティブ・シェフの丸山氏。『Sumika(炭家)』、『Orenchi(俺ん家)』、『Orenchi Beyond(俺ん家ビヨンド)』そして『Iroriya(いろり家)』と、どのお店も連日大盛況の人気店ばかりだ。
何のコネクションも無いまま、単身渡米した丸山氏が、どうやって異国の地でこのような人気店を作り上げたのか。その成功の裏側に隠されたストーリーに迫る。これからアメリカ進出を考えているレストランのオーナーやシェフも必見の内容である。
遊びも仕事も一生懸命な27歳当時、単身渡米
日本では、埼玉県さいたま市にある高級焼き鳥店で、雇われシェフをしていたという丸山氏。「しっかり遊んでいなければ、良い仕事は出来ない」と語る丸山氏は、当時から遊びも仕事も一生懸命。月曜から土曜まで焼き鳥屋で仕事をした後、土曜の夜に西麻布に出掛けてDJ業に精を出していた。更に日曜には姉妹店の寿司屋で修行するという一週間。まるで、いつ休むのかというような生活をしていたという。
そんな彼に転機が訪れたのは27歳のとき。ちょうど同じ年代のシェフやオーナー達が、日本で自身のお店を持ち始めている頃だった。もともと知り合いだった、ロスアルトス市(サンフランシスコから南に40分ほどの高級住宅街)在住の知人から、一緒にベイエリアでレストランをやらないかと持ちかけられたのだ。海外でやるということ自体に興味もあり、そしてやるなら人と違ったことに挑戦したい、というひねくれ者精神?&イノベーター精神から渡米を決意。その知人が出資者となり、オギク・コーポレーションを共同で立ち上げ、焼き鳥店『Sumika(炭家)』の開店準備に取り掛かった。
炭家オープン前後に待ち受けていた、苦労の連続
出資者となってくれた知人以外の知り合いは、現地におらず、何のコネクションもない状態からのスタートだった。パートナー自身もレストランの経験はなかったため、はやりコネクションはない。そのため、食材の調達一つ取っても上手くいかなかった。
まずつまずいたのが、焼き鳥店の要である良質で新鮮な鶏肉の仕入れだった。農場と直接契約をする必要があったが、紹介もなしにいきなり農場を訪問して、何度も門前払いをくらったという。当時、片言の英語すら話せなかったという丸山氏は、紙に言いたいことを書いて持参し、何とか意思疎通を図ったそうだ。
炭家がオープンしたのは、約10年前の2006年9月。今でこそベイエリアで焼き鳥屋を見つけることはさほど難しいことではないが、当時は焼き鳥の知名度が非常に低く、アメリカ人にとってほとんど馴染みのない食べ物、という状態だった。
馴染みがないが故に、オープン後も苦労が絶えなかった。知名度の低い『焼き鳥』という食べ物に加え、お店自体の知名度もなく、赤字がどんどんかさんでいった。第一回のデリカ岩田社長のインタビュー時にも、彼が全く同じことを言っていたが、日本食といえば、『照り焼きチキン』という時代である。メニューに照り焼きチキンがないのは、アメリカ人からしたら期待外れだったのだ。
丸山氏としては、拘りの焼き鳥を、『塩』で出したいと思っても、客からは照り焼きソースがかかってないと文句を言われ、受け入れてもらえない。焼き鳥を少し生の状態を残して出せば、もっとしっかり焼いてくれと言われたり、親子丼の卵を半熟で出せば、もっと固い卵にしてくれと、客の要望は日本とは全く違っていた。日本人が良いと思うものと、現地の人が良いと思うものの差に常に悩まされてきたのだ。
上写真:これが噂の半熟卵の親子丼。筆者もお気に入りの絶品親子丼だ。
しかし、丸山氏は信念を曲げなかった。アメリカ人が求めるものを提供するのではなく、アメリカ人側に自分の味に合わせてもらい、自身が美味しいと思うものを出し続けたのだ。
オープンから1年半が経過し、赤字はかさむ一方。出資者であるビジネス・パートナーも、もちろんいい顔をしなかった。そこで、丸山氏はビジネス・パートナーと、決意を込めた約束をする。もう1年やって、ダメだったらかさんだ赤字を借金として背負って、店を畳もうと決めたのだ。
何がなんでも赤字から脱却しないといけない状態だった。経費を抑えるために、ビジネス・パートナーにもホール係として働いてもらった。そんな折、炭家がサンフランシスコ・ベイエリアのミシュランガイドにて、『ビブ・グルマン』(星獲得まではいかないものの、コストパフォーマンスが高く、調査員のおすすめのお店)に選ばれた。
そこから一気に店の経営は好転する。予約がどんどん入り、客足が絶えないようになった。アメリカ人向けに変にカスタマイズせず、真面目に美味しいものを追求してきた成果が、形となって表れたのだ。約束から1年以内に見事黒字化に成功し、店は存続することとなった。
攻めの姿勢を止めず、次はラーメンのお店を出すことに
2009年、炭家の黒字化に成功した丸山氏は、直ぐに次なる一手を打ち出した。ラーメン屋を開くことにしたのだ。なぜ焼き鳥屋をもう一店ではなく、ラーメン屋だったのかを伺ったところ、『自分が飲んだ後に、美味しいラーメンが食べたかったから』と、丸山氏の自由人らしい答えが返ってきた。ラーメンは焼き鳥と違って、当時既に何店舗かお店があった。しかし『ラーメンの好みは十人十色』と語る丸山氏にとって、自分の食べたいラーメンと既存店は違うと感じていた。
そこで、日本のラーメン店8店舗をまわる約1ヶ月半の修行の旅に出た。もともと料理人である彼は、厨房の片隅から見学させてもらうことで、だいたい何をやっているかは把握出来たという。帰国後はキッチンにこもり、自分自身のオリジナルラーメンを追及し、俺ん家ラーメンを完成させた(但し、俺ん家ラーメンは、女性ターゲットも意識して丸山氏が好きな濃厚なこってり系より、ややあっさり目の仕上げにしたようだ)。
上写真が俺ん家ラーメン。日本人からも現地人からも、圧倒的な支持を集める一杯だ。
次に、何故あのロケーションだったのかを聞いてみた。というのも俺ん家ラーメンは、サンタクララ市の全然イケてないショッピングモールの中にある。当時はみんなが口をそろえて、ゴーストモールと呼んでいた場所なのだ。
その理由は、俺ん家が入る前の飲食店のオーナーが夜逃げし、『居抜き』という形で入れたので、初期費用が非常に安くすんだこと。賃料も安かったので、採算が取りやすいと踏んだのだ。
いくら初期費用が安かったとはいえ、集客力のないショッピングモールへの出店に、少しの不安はあった。美味しく作れば場所は関係ないという思いと、少しでも炭家のお客様が来てくれればという思いから、当時は『Orenchi Ramen by Sumika』と炭家の名前も入れていたところに、丸山氏の心情が伺える。しかし蓋を開けてみれば、結果は大成功。オープンから口コミだけで広がり、8ヶ月ほどで行列の絶えないお店となった。昨今、ベイエリアでは、ラーメンが大人気。この俺ん家ラーメンがブームの火付け役と言っても過言ではない。
この成功を軸に、2014年にはサンフランシスコ市内に2号店となる、『俺ん家ビヨンド』をオープン。サンフランシスコのラーメン市場は、サウスベイ(俺ん家ラーメン1号店がある地域)と違って、まだそこまでブームが到来していないという。サンフランシスコでブームが到来し、その影響がサウスベイに流れてきて、また新たなラーメンブームが巻き起こると丸山氏は考えているようだ。
ラリー・ペイジ氏を1時間半待たせるツワモノ
留まるところを知らない俺ん家ラーメンの人気は強烈だ。グーグル社の共同創業者で、現アルファベット社(グーグルの持株会社)のCEOである、あのラリー・ペイジ氏(当日の従業員から聞いた話)らしき人物を、俺ん家ラーメンの店頭で1時間半も待たせたというのだ。スタッフがラリー・ペイジ氏であることに気づかなかったとはいえ、ラリー・ペイジ氏のような人物を1時間半も待たせることが出来る人物というのは、そうそう居ない。
特に文句を言うこともなく、奥様と普通に待っていただけた模様だという。その後、炭家に自家用ジェット+リムジンで来た際には、事前に連絡をくれたそうだ。彼ほどの人物の1時間半という『時間の価値』を考えると、驚きを隠せない。そんなに待ってでも食べたい食事というのが、俺ん家ラーメンの威力なのだ。
前編は以上。後編では、丸山氏の最新のお店『いろり家』での取材内容と、フリートークの内容をお届けする。
後編はこちら
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